葬儀・告別式

古くは、自宅での出棺の儀礼後、葬列(野辺の送り)を組んで葬場に行き、葬儀式を行い、火葬または土葬をしたというのが一般的であったと思われます。葬列がなくなって、自宅での儀礼と葬場での儀礼が一体化したことにより、現在の葬儀・告別式が誕生しました。

葬儀(葬儀式)は死者をこの世からあの世に引き渡す宗教的な儀礼であり、告別式は会葬者が遺族に慰めの言葉を寄せ、一人一人焼香または献花して死者に別れを告げる儀式です。したがって、葬儀式は宗教儀礼であり、告別式は社会儀礼であると位置づけることが可能でしょう。

ところが、現代にあっては参列者が忙しい、火葬の時刻が定まっているなどの理由から、葬儀式と告別式の同時進行が一般的となりました。葬儀式の最中に会葬者による告別の焼香が行われるようになり、告別式の位置づけが強まり、逆に葬儀式の位置づけは弱まる傾向にあります。社会儀礼としての告別式の位置が高まることにより、遺族が会葬者への答礼に忙しくしていることが多いことで、「何のための葬儀か」という批判も起きるようになっており、葬儀式と告別式のあり方については再考を要する時期にきています。葬儀式と告別式の機能の違いを充分に配慮したいものです。

そのなかで、大規模葬儀に見られる「密葬-本葬」方式、最近流行の「密葬-お別れ会(偲ぶ会)」方式は、機能から見れば葬儀式と告別式を分離して行おうとするものと理解できます。

 

〇葬儀・告別式の流れ

仏教式の葬儀・告別式の一般的な流れを以下に示します。

①一同着席

⓶導師入場・開式

③葬式作法(読経、引導)

④式辞・弔辞

⑤焼香・読経

⑥導師退場・閉式

⑦一同退場

➇お別れの儀※骨葬では行われません

⑨棺搬出※骨葬では行われません

⑩遺族代表挨拶

⑪出棺(霊柩車出発)※骨葬では遺骨の見送り

①~③(あるいは④)までが葬儀式部分、④(または⑤)~⑦が告別式部分です。葬儀式と告別式は多くの場合は同時並行で進行されがちです。③の儀式作法が行われている最中に時間節約のため焼香が行われることがありますが、できれば避けたいものです。④の式辞・弔辞は自宅葬などの場合には省略されることもあります。式辞は、弔詞、式文とも言いますが、葬儀委員長による故人への弔いの表明です。導師が式辞を述べる場合もあります。また、弔電が紹介されるのはこの後です。⑧のお別れの儀は、遺族・関係者が棺を開け、花などを入れるなどして遺体と最後のお別れをします。

⑩の遺族代表挨拶は、出棺を前にして会葬者にお礼の挨拶をすることです。すでに火葬を済ませている場合などには、遺族代表挨拶を⑤または⑥に引き続いて行い、遺骨退場を見送って散会することもあります。葬儀委員長による挨拶を遺族代表挨拶に代えるところもあります。

焼香は遺族焼香に引き続き参列者焼香、一般焼香の順に行います。遺族焼香、参列者焼香を指名で行うことがあり、これを「指名焼香」「呼名焼香」と言います。式場前に設けられた焼香所で開式前から一般焼香を受け付け、会葬者は焼香を終え次第、出棺を見送らずに帰路につく地域もあります。これは一般弔問を別に受け付けていると考えるのが適当でしょう。一般会葬者、火葬場まではいけない葬儀参列者は出棺の見送りまで行うのが一般的です。

開式に先立ち、または閉式後、僧侶、遺族が式場に入場(退場)する際に略式の葬列を組むことがあります。僧侶を先頭に位牌、柩または遺骨、遺族の順に入場(退場)するのが一般的です。

 

〇葬儀・告別式の準備

①受付の設定、門標、会葬御礼品(粗供養)、花環(または樒)や生花の準備をします。

⓶門前、式場、祭壇の掃除をします。

開式1時間半前までに①、⓶の作業を終えるようにします。

③遺族・関係者と最後の確認を行います。

1.当日の日程、時刻の確認

2.弔辞の確認

3.弔電の扱い方

4.焼香順位、名前を呼ぶ場合には肩書き、名前の読み方の確認

5.供物、供花の扱い方、配置順の確認

6.席順の確認

7.火葬場同行者の人数、車の確認

8.会葬礼状、会葬返礼品の内容、数の最終確認

9.役割の確認(会葬者への答礼、受付、案内、車、警備など)

10.葬儀後の会食の確認

11.その他(心づけの扱いなど)

④僧侶など式執行にあたる宗教者との打ち合わせを行います。

1.飾りつけの確認

2.式進行の確認

3.当日の日程表(時刻表)の確認

4.その他注意すべきことの確認

⑤式辞・弔辞を述べる人と打ち合わせします。

1.紹介する肩書き、名前の確認

2.時間の確認(1人が話す時間は3分が原則、400字詰め原稿用紙にすると2枚程度。前後の移動時間を入れると合計5分)

3.動線、動作の確認

⑥霊柩車、マイクロバス、ハイヤーの再確認を行います。

⑦料理の手配の再確認をします。

⑧音響装置その他の設備の確認をします。

⑨現場の点検を行い、準備に問題がないか最終確認をします。

1.計画通りに準備ができているか

2.天候などの関係で補う点はないか

3.危惧される点がないか

 

供花は、全国的には花環または生花、中部・関西地方などでは花環の代わりに樒(しきみ/しきび)が用いられます。関係者から供花の申し出がありますが、この扱いについては事前の確認が必要です。供花や供物を辞退するという遺族もいますから、供花をそもそも受け付けるのか、受けた場合の生花の種類、贈り手の名前の表示など、事前に確認しておく必要があります。式場によっては置き場所の制限もあります。

生花や花環などの供花の配列順はしばしば問題になります。勝手に判断しないで遺族の考えに従って行うことが必要です。最近では、芳名板にアイウエオ順で贈った人の名を一括して提示する方法がとられることもあります。また、生花代金を祭壇や式場内外の装飾花の作成費用にあて、供花してくれた人の名は芳名板に一括して記す方法を採用することもあります。

最近は、生花祭壇のデザインはもとより供花の生花のデザインに対しても消費者の感覚が鋭くなってきています。葬祭業者および協力する生花業者はデザインの研鑚に励む必要があります。「なまもの」の樒や生花は売り切りですが、花環は造花ですから、最近は売り切りではなくレンタルが多くなっています。

 

戦後、高度経済成長の波に合わせるように葬儀・告別式の演出も多様に行われるようになり、またそれに対して消費者や宗教者からさまざまな意見が出るようになりました。

音楽の使用は一般化しています。開式前、弔辞や一般焼香の場面、出棺などで使用され、専用のCDも販売されています。また、故人の人となりを知らせるために、ナレーションテープやビデオも使用されます。故人の趣味である詩歌、音曲の使用を希望されることもあります。柩退場時にスモークや照明を用いる、出棺の際に鳩を飛ばす、など演出方法も多彩です。葬儀の演出については、さまざまな考えがあります。けっして押しつけるのではなく、よく説明し、遺族の意見、寺院等の意見をよく聞いたうえで行う必要があります。特に葬儀式は宗教儀礼として厳粛に行う必要があり、寺院等の意見を必ず聴取する必要があります。

 

出棺に先立って、遺族・関係者による遺体との最後の対面が行われます。この場面は最後の別れのときであり、遺族の愛惜の気持ちが露出し、動揺するときですから、その気持ちに配慮して慎重に対応しなければなりません。急がせられたという印象を与えないように注意する必要があると同時に、切り上げる時を明確にする必要もあります。

棺にいれる生花は「別れ花」とも言われます。通常は飾られていた生花を入れやすいように小さく分け、おぼんに載せて準備し、係員が遺族・関係者に手渡しします。

棺の蓋をした後、釘打ちをすることがあります。昔は蓋が外れて遺体が外に出ないように縄で縛りましたが、いつの頃からか蓋を釘で止め、それに遺族が参加して小石で釘を打つという習俗ができました。死霊が外に出ないように封じるという死霊に対する恐怖感のなせるものであったと同時に、また、石には呪力があると信じられたことから死者を悪霊から守るために行うとも考えられています。遺族自ら釘を打つことで死者の蘇生を断念するという意味もあったでしょう。しかし、遺族の心理を考えると釘打ちをすべきでないとする意見もあります。釘打ちをする場合には、葬祭業者がまず金槌で半分打ち、その後遺族が血縁の順に小石で軽く2回ずつ打ち、最後に業者が金槌で封じるのが一般的です。

 

葬儀・告別式の後に出棺して火葬するという順番が一般的ですが、葬儀・告別式に先立って火葬する習慣の地域もあります。東北地方を中心にして全国各地に散在しています。葬儀・告別式に先立って火葬することを「骨葬」と称しています。

骨葬地域では、本通夜に先立って火葬する地域もあります。午前中に出棺して火葬に付し、午後から葬儀・告別式を行い、その後菩提寺に行き納骨(埋骨)するのが一般的ですが、葬儀・告別式で遺体との別れができないから変えようという動きがあったり、遺族の考えも変わる要素になります。

また、山梨や長野の骨葬地域の一部では、葬儀式に先立って一般会葬者による告別式が行われることがあります。これは一般会葬者を待たせないこと、葬儀式の参列者は終了後ほぼ全員が法要とその後の会食(お斎)に向かうという実用性から生まれたものです。

 

出棺の際、遺族代表による挨拶が行われます。一部の地域において、葬祭業者が挨拶を代行しその泣かせる技を競ったこともありましたが、望ましいことではありません。喪主あるいは遺族の一員に、短くとも自分の言葉で挨拶するようアドバイスするのがよいでしょう。 出棺の際に位牌を手にするのは伝統的に喪主の役割とされています。

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通夜

通夜とは古代の殯(もがり)の遺習であるとか、臨終の際の看病の延長にあるものであるといわれます。夜伽(よとぎ)とも言われ、夜を徹して死者をみまもり、枕元でお経が読まれ、念仏が唱えられました。

死とは法律的には「心停止」という<点>ですが、遺族や身近な人たちにとってはすぐ受け入れられることではありません。そこで、夜を徹して死者の枕元に侍り、生きていると同じように仕えます。ある意味では、死者と最後に過ごす大切な時間であると言えます。

遺族にとって死者はまだ完全な死者として認められた存在ではなく、生と死の境界線上にあって気持ちが揺れ動き、矛盾に満ちた状態にあります。こうした遺族の心情を大切にして通夜を過ごしたいものです。遺族が亡くなった方を囲んでお別れのための充分な時間をもつということは通夜の大切な機能なのです。

 

親族も地元にいるとは限らず、また、いろいろな人に連絡する都合もあって、死の当日は「仮通夜」と称して家族で死者を見守り、葬儀・告別式の前日を「本通夜」とするケースが多く見られます。(本)通夜は夜の6時~7時の1時間程度を僧侶の読経と弔問客による焼香にあて、終了後弔問客に対して「通夜振る舞い」の酒や食事を供し、1~2時間で順次散会、後は遺族や身近な者だけで死者を見守る、というのが一般的です。

近年は、仕事の都合から、夜間の弔問が便利ということで、通夜の参列者が告別式の参列者より多くなるという傾向がありますが、通夜の本来の意味を失わないように注意したいものです。

キリスト教のプロテスタントでは、通夜は「前夜式」と呼ばれ、礼拝が行われます。カトリック、プロテスタントともに、派手な「通夜振る舞い」は避ける傾向にあります。宗教、地域の習慣の違いにも注意しましょう。

現代の通夜が夜間の告別式のようになったとしても、最も大切なことは遺族や身近な人が死者と共に過ごす最後の時間であるということには変わりはありません。遺族は長い看病により肉体的にも疲れていることに加えて精神的にも打撃を受けていることを心に留める必要があります。

僧侶は読経の後、法話をし、仏教の教えにおいて生と死はどう考えるべきかを説き、遺族への慰めをします。また、通夜の席ではしばしば戒名が与えられます。その場合には白木の位牌、和紙、硯、筆(新しいもの)を用意しておきます。

〇通夜の準備

1. 飾りつけの確認をします。

2. 受付、案内、供養品渡し、料理の手配、などの役割を確認します

3. 遺族その他の着席場所を確認しておきます。

4. 夜間ですから照明も含めた案内の確認をします。

5. 宗教者と進行を確認しておきます。

通夜は歴史的にも変化してきたものですし、地域によっても営まれ方が異なりますが、仏教式の一般的な法要の進め方を以下に示します。

1. 時間がきたら遺族、関係者は着席します。

2. 導師が着席し、読経が行われます。

3. 導師の指示により、遺族・関係者の焼香、弔問客の焼香が行われます。遺族・関係者の焼香は回し焼香で行われることもあります。

4. 導師による法話が行われます。

5. 遺族代表が挨拶し、通夜振る舞いの案内をします。

6. 通夜振る舞いを行い、弔問客は自由に散会します。

7. 最後は遺族・関係者のみによって遺体を守ります。(灯明、香は絶やさないようにします。)

<注意点>

1. 式場の広さを確認し、棺の前に座る人を確認します。関係者だけで営むときには順次座ってもらっていいでしょうが、弔問客が多いときには会葬者の待機する場所、中に誰に座ってもらうか、などを事前に確認しておきます。

2. スペースの関係もありますから、通夜振る舞いの席に弔問客全員を案内するのか、関係者だけにするのか、確認しておきます。葬儀費用の見込み違いに「接待費用が思いがけなくかかった」ことがよくあげられます。事前に方針をきちんと確認しておく必要があります。

3. 遺族の心身の疲労もあるので、通夜振る舞いの終了時間を予め確認しておき、自然に終わりにもっていくよう配慮します。

4. 片づけ、整理を行い、遺族・関係者の方に過ごしていただく場所の設定を行います。

5. 翌日の確認を行います。通夜の弔問客の様子から火葬場への同行者の数、マイクロバス、料理、焼香順位、弔辞などに変更がないかどうかを確認します。

 

通夜振る舞いにもさまざまな形があります。酒食を供するのではなく、弔問客にお菓子をもって帰ってもらうもの、お茶だけを供するところ、食事券(寿司屋などの)を渡すものなど地方により異なります。食事を供する場合には、人数がその場にならないとわからないので、弁当などよりは盛り合わせ料理のほうが適しています。

 

また、通夜は遺族中心のものですから、葬儀業者は設営・飾りつけだけで、立ち会わない、というところもあります。しかし、通夜の時点では遺族も精神的に不安が多い時期ですから、側にいて相談にのってあげられる態勢は必要です。近年、通夜の弔問客が増える傾向もあり、葬儀習慣をよく知らない人も多くなっていますので、葬祭業者が通夜のお世話をする必要度は高まる傾向にあります。

 

通夜と葬儀・告別式との境がなくなってきたことと、礼服マナーが説かれるようになったことから、戦後(特に昭和50年代以降)になって通夜における黒服着用が一般化してきたという経緯があります。しかし、黒服は「喪服」(喪に服すときに着用する着物)として着用するものですから、生と死の境界線上に位置付けられる通夜では喪服の着用はふさわしくないとする考えもあります。特に弔問客の場合には、黒服着用は必要なく、派手でなく、きちんとした服装であれば問題はありません。

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現在の葬儀事情

戦後、全国的に葬列がほとんど姿を消し、告別式中心の葬儀に移行していきます。葬儀が通夜と告別式の2日間に集中、短縮され、初七日法要も葬儀・告別式当日に繰り上げて行われることが一般的になりました。さらに会葬者に迷惑をかけられないなどを理由に、葬儀・告別式を1時間内で行うことが一般化しました。

会葬者は会社を休んでの日中の弔問より就業後の夜間の弔問が便利とあって、告別式よりも通夜に訪れることが多くなる傾向にあります。家族・近親者は仮通夜を先に行って、弔問を受けるものを本通夜とし、祭壇も設営して葬儀・告別式と近い形で営むようになりました。

平成13年以降の不況の影響もあり、葬儀の小型化、密葬化もすすみます。葬儀に対するコミュニティの関わりも弱くなり、葬儀の個人化傾向としてその人らしい葬儀への関心の高まり、「お別れ会」方式の葬儀が出現するなど多様化が進んでいます。

また、中陰の7日ごとの法要は省略され、四十九日の法要のみに簡略化される傾向にもあります。

 

現在、葬儀の環境を大きく変えているのは斎場(葬儀会館)です。元来は葬儀の場所は自宅または寺が主でしたが、戦後の家の構造変化や式場環境の快適化などから斎場を望む声が大きくなりました。今では葬祭業者による民間斎場が大幅に増加しています。式場だけでなく、遺族控室、会食室、仮眠設備、駐車設備を整えているのが一般的です。自宅や倉庫改造タイプの小型のものから数十億円をかけた大型のホテルタイプのものまであります。お別れ会や法事利用へ積極的な営業姿勢を見せています。

 

葬儀の場所が斎場に移ったことにより、葬祭業者にはよりきめの細かいサービス、対応が要求されるようになりました。これに伴い、葬祭業の業態も設営、式運営から、遺族のケアも含めた葬儀期間全体にわたるものに変化しつつあります。

そのため、地域で斎場競争が生じるところも多く、斎場建設に経営悪化も見られるようになります。斎場を保有しない場合は、専門的知識・技能およびソフトによる特化を図る必要がでてくるなど、いっそうの経済努力が葬祭業者に求められる時代になりました。

 

昭和63年前後より、湯灌専門業者の誕生や、遺体の消毒・防腐・復元・化粧の技術であるエンバーミング(遺体衛生保全)により、新しい遺体処理が注目を集めています。その他、遺体処理を専門にする納棺師や死化粧なども登場しています。

 

平成2年前後より葬儀の個性化を求める動きも出てくるようになりました。さらに 平成4年以降、報道などから社会の葬儀に対するタブー意識が薄れ、葬儀費用明確化の要望や葬儀の内容への注文、さらには事前相談も増えてきました。行政による消費者向けの葬儀関連セミナーも増加しています。組合などでは、個別業者による相談コーナーの設置や生前予約に関するさまざまなサービスも行われています。地域共同体が主体であった葬儀から、次第に葬祭業者に運営まで任せるよう移行していく中で、葬祭業者のサービスの質の向上が図られています。

しかし、業者依存が進むと、「地域の文化」としてあった葬儀文化は「葬祭業者の文化」になりつつありました。葬儀への批判は「業者主導で営まれる」と葬儀業者に向けられるようになりました。葬祭業者に課せられる葬儀への責任が重くなり、サービスの量的、質的充実など対話を通じて理解を得ていくことがいっそう求められるようになっています。そうして地域の意向を重視していたものが、次第に家族・親族の意向重視に、そして最近では家族・本人の意向重視に変わってきており、葬儀への希望の多様化が進んでいます。

 

平成11年、全葬連は、全国大会で「生活者への宣言」を採択しました。葬祭業者の仕事とは、グリーフ(死別の悲嘆)の中にある遺族を、希望にそって支援することであるとしたのです。

平成13年の消費者契約法で、①事前相談の受け付け、②明朗な価格表示、③ご遺族の想いを大切に、④情報の提供と助言、⑤葬儀の選択・決定権、⑥疑問・不安点への対処、⑦常に改善に努力、➇アフターケアの提供、⑨責任ある対応、⑩信頼される葬儀社に、という10項目を葬儀社の仕事の内容・姿勢として明らかにしました。こうして、葬具提供業・式場設営業・式典運営業から、個別遺族への総合的なサービスを提供する業であると、社会に発信しました。

 

平成4年以降の「葬儀ブーム」に先行して、昭和60年前後より始まった「死のブーム」があります。「死」は、社会的なタブーとしてありましたが、高齢化が進んで終末医療(ターミナルケア)への関心が高まると、治療優先主義の医療への批判がでるようになりました。病気の最終段階において、患者本人の生活を犠牲にするのではなく、患者の「生命」「生活」の質(クオリティ・オブ・ライフ、QOL)を尊重した「ケア」が大切だとする批判です。

「死に方」は医者に決定権があるのではなく、患者本人に決定権があるべきだとする「死の自己決定権」の主張です。また医療情報の本人への開示と治療方法への同意(インフォームド・コンセント)が重要との認識が社会的に共有されつつあります。これにより「尊厳死」への関心も高まりを見せています。こうした「死のブーム」によって葬儀への関心の高まり、葬儀や墓に本人の意向を優先して生かすべきだとする「死後の自己決定権」が提唱されるようになりました。

 

戦後民法の改正により家制度が変わり、核家族化・少子化の進行もあり檀家制度は弱くなりました。それまで仏教葬の割合は9割以上を占めていたものの、寺院離れにより儀式のためだけの仏教寺院依頼が増えていきます。戒名および戒名料への批判もあり、近年では「お別れ会」「偲ぶ会」といった無宗教葬も見られるようになりました。

 

お墓も変化の中にあります。昭和35年以降、核家族化により都市圏で墓地需要が増え、公営霊園だけでなく、民間の霊園開発も行われました。その一方で、地方の寺院墓地が過疎化の影響を受けるといったような、対照的な様相を呈するようになりました。

また、「家墓」形態は核家族・少子化が進むことにより無縁化を招き、承継の問題が問われるようになりました。男子あるいは長子承継の墓地運営規則も見直され、両家墓(結婚した女子が承継のため2つの家名を並べる)や家名を刻まず「愛」「夢」などの言葉を刻む墓(=無家名墓)、あるいは承継者がいなくてもよい墓(永代供養墓)、30年、50年と期限のある有期限墓地、合葬墓や大規模納骨堂と多彩な墓が登場しています

さらに、都市における墓地開発の環境の面から、遺骨を墓や納骨堂に納めないで散骨する自然葬や海洋葬なども登場しています。しかし、墓埋法などが前提としていないケースだけに、法制化の必要なしとする意見と、住民から法制化すべきとの意見に分かれています。平成11年には山林環境を保護するため墓石などの人工物を一切用いない樹木葬墓地も誕生しました。高齢社会が本格化する中で、葬儀と墓をめぐる環境は大きく変化しつつあると言えます。

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戦後の葬儀

昭和20年に第二次世界大戦は日本の敗戦で終結しますが、戦争終結直後の数年は物資不足、インフレで国民生活は混乱しました。しかし、その後の朝鮮戦争の特需景気もあり、日本経済は次第に立ち直り、葬儀も復興し変化していくことになります。

 

戦後の変化の一つは、祭壇や葬具です。昭和28年前後に祭壇、棺、繊維などの葬具製造・販売業者が続々と誕生します。それまでは葬祭業者が自分で製作していましたが、仕入れて使用するようになり、地方特有の葬具は姿を消してバラエティに富んだ商品開発が盛んになっていきます。高度経済成長に合わせるように蛍光灯使用祭壇などが使用されるようになり、昭和35年以降は「葬儀=祭壇」とも言うべき図式が成立するまでになりました。

 

昭和20年代後半は「虚礼廃止」の名の下で自粛、制限が申し合わされ、自治体による公営葬儀も登場しました。貧富の格差も大きかったという事情が背景にあったようですが、   葬祭業者にとっては打撃となることで、各地で反対運動が展開されると共に、これを一つの契機として昭和31年に全日本葬祭業組合連合会が誕生します。発足時の全葬連への加入組合数は13、構成した業者数は851でした。現在葬儀の全国シェアの3割以上を占めるにいたった冠婚葬祭互助会が誕生したのは、戦争終結後間もない混乱期の昭和23年のことです。

横須賀の西村葬儀社が、蓄えもなく満足に結婚式や葬式をあげられない当時の事情を考慮して開始した横須賀市冠婚葬祭互助会がその最初です。当時の普通会員の掛金15円(満額1、800円)で期間は10年でした。

これを昭和28年に日本経済新聞が記事にしたことで、冠婚葬祭互助会が全国各地に誕生します。互助会は月々定額積立で安価に結婚式や葬式ができるということで急激に普及していきます。通産省(当時)の管理下におく「割賦販売法改正」が国会で成立され、前払金の保全を行う互助会保証(株)、全国の互助会を傘下におく社団法人全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)が発足しました。

 

安価な葬儀ということで、葬儀料金の体系化・明朗化に影響をおよぼし、専門業者の団体である全葬連も各地で標準仕様作りを進めるところとなります。互助会においては、地方色を薄れさせ、葬儀の全国的な標準化、商品のパック化を進めたとの見方もあります。

現在、葬儀ローンや共済制度、あるいは保険を利用した新たな葬儀システムが登場していますが、顧客獲得と葬儀費用の支払いをシステム化し成功した最初のものが互助会でした。

専門業者の集まりである全葬連は、全国の組織化を進めると共に、昭和43年には「葬祭サービス業」を標榜するようになります。都市化や核家族化の進展によって、葬儀運営の主体が、それまでの地域共同体から業者に移行するという変化に対応しようとするものでした。葬具提供業から葬儀運営まで請け負う葬祭サービス業へ、「ハード中心からソフト中心へ」という現在まで続く業態転換となりました。全葬連は昭和50年に通産省認可の全日本葬祭業協同組合連合会へと発展します。(2003年の加入組合数57、所属業者数1562)

 

農協は、葬具貸出を大正末期より始めていましたが、業者依存する葬儀が増える昭和40年以降、葬祭事業を開始する農協が増えてきました。自前の葬祭センターを設けて本格的な事業化を図るようになり、また員外利用(組合員以外の利用)の増加しましたが、各地で既存業者との摩擦も増えていました。

 

戦後になり病院死が増え、葬祭業者と病院との提携が進みます。この頃より企業・団体と契約する営業方法が現れてきます。特に昭和60年以降はこの傾向が強く、構成員の福利厚生を考える生協、企業、団体、労組の意向と合致したこともあったようです。

 

大正時代から昭和の戦前にかけて霊柩車が利用されるようになりましたが、宮型霊柩車の使用が増えていくのは昭和35年以降のことです。交通の近代化、激化が地方にもおよぶところとなり、高度経済成長の波とともに宮型霊柩車が全国に普及しました。それと同時に各地で葬列が姿を消し、告別式にとって代わられるようになりました。

霊柩事業はもともと運輸省(現・国土交通省)陸運局による免許事業でした。社団法人全国霊柩自動車協会(全霊協)が協業化などによる構造改善事業を推進し、免許制から許可制に、さらに2003年には事後届出制となって自由化がいっそう進みました。全霊協は昭和22年に六大都市霊柩自動車連絡協議会を作り、社団法人として認可されている葬儀関連業界最大規模の組織です。

霊柩車は宮型が全盛となっていましたが、平成5年以降はバン型の輸入あるいは国産の洋型霊柩車が増加しています。

 

  • 霊柩車の車種別割合     宮型    洋型    バス型    バン型

1998年  38.4%   5.7%    11.6%    44.3%

2003年  33.2%   12.2%    9.6%    45.0%

 

戦前の昭和15年に55.7%と初めて過半数に達した火葬率は、戦後一気に上昇すると、各地方自治体で火葬施設の新設、統廃合、改善が推進され、昭和35年に63.1%と6割をこえ、昭和55年91.1%、平成13年には99.1%となっています。これは世界一の高水準です。

現在では「火葬場らしくない」近代的施設として無煙化、無臭化、緑地化を進め、地域住民の嫌悪感をなくすため「斎場」などと称するところが多くなりました。昭和47年に日本火葬施設整備管理協会が厚生省の肝入りで発足し、平成7年には、にほん環境斎苑協会が発足しました。阪神大震災で火葬場の一部が稼働停止し大きな影響がでたことから、災害時の対策、周辺火葬場との連携にも取り組んでいます。

 

火葬をめぐる地域習俗の違い、火葬を葬儀のどの時点で行うか、拾骨の方法などは、全国で大きく2つに分かれます。東京や関西その他では葬儀・告別式の後に火葬を行いますが、北海道や東北地方全域、関東北部や北陸、中国地方の一部などは葬儀・告別式に先立って火葬を行います。これは古くからの慣習というよりは、火葬導入にあたって、多くの地域で火を土葬の代わりと考えたのに対し、前記の地域では葬儀の最終局面を墓地への納骨と見る考えから火葬を葬儀・告別式に先行させたものとおもわれます。

また拾骨の方法は、日本列島を能登半島と静岡中部を結ぶラインで分けると、東側と西側一部が全部拾骨、大部分の西側では部分拾骨で、骨壺の大きさが異なります。

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葬列から告別式へ

大正時代になると、都市での大型葬列に対して「私事のために交通を妨げていいのか」などとマスコミにも批判の論調が目立つようになり、明治17年制定の「墓地及埋葬取締規則」によって、市街地での埋葬・火葬が制限されました。

その後、急激に葬列廃止の動きが進むことになり、代わって登場するのが告別式です。最初は1901(明治34)年の中江兆民の葬儀であると言われています。地方ではまだ「野辺の送り」と言われた葬列が基本でしたが、東京、大阪といった大都市では葬列が急激に減少し、代わって霊柩車、告別式が登場することになるのです。

葬列の廃止を葬祭業者は「分相応の葬列をしないということは人道にもとる」などと反撃しましたが、時代の流れを変えることはできませんでした。

霊柩車使用の最初は不明ですが、はっきりとした記録があるのは大正6年、大阪の有力な業者です。当時は米国の霊柩車のビム号を輸入したようです。米国の霊柩車は派手なものが多く、当時の輿と共通するものがあったのでしょう。葬列がなくなり、全国的に霊柩車や告別式が登場してくるのは戦後になってのことです。1920年代には日本人に合うようにと霊柩車を和風の唐草模様にアレンジし、宮型霊柩車が登場することになります。

大都市における告別式の登場により大きく変化したのが祭壇です。それまでは現在の枕飾り程度のものでしたが、これが前机となり、さらに2段、3段、段々のものや興を上に配するなど、現在の祭壇の形が生まれてきます。その後六灯(元来は葬列の道具である六道)などの新しい燭台、春日燈籠など祭壇道具の原型が作られ、専門職人も誕生しました。

昭和10年前後までは大都市でも葬列は細々残っていましたが、戦時体制になるとこれも消え、葬儀業界も戦時下に置かれることになります。昭和17年には六大都市の霊柩運送事業者の戦時合併が、また葬祭業者、葬具の製造、販売業者の統制組合化が行われました。霊柩車の燃料も不足し、葬具の供給も困難になります。

戦死者を駅で出迎えての慰霊祭も行われ、遺体収捨作業にも携わるところとなり、葬祭業者やその従業員が召集されることもありました。戦争の最終局面においては告別式どころではなく、きちんとした葬儀を施行する機会は失われました。

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明治時代の葬儀

江戸時代は士農工商という身分制度が支配しており、葬儀の奢侈(ぜいたく)化を嫌う行政権力から身分ごとの葬儀基準が示され、葬儀の簡素化が奨励されていました。明治に入り、この身分制度が取り払われることによって特に都市において大きな変化を招きます。

その第1は、日中に葬儀が行われるようになったことです。それ以前は夜になってひっそりと葬儀が組まれていたのですが、台頭した商人層を中心に日中に見せびらかすかのような葬列が登場してきます。

第2は寝棺および輿の登場です。江戸時代には座棺でしたが、富裕層では葬列の肥大化と共に寝棺が使われ、白木であつらえた輿に入れ大人数で運ぶようになりました。そしてこれが財力の象徴と受け取られるようになります。今でも東京、関西で白木の宮型霊柩車が上等とされるのはここに起因します。他方庶民は座棺が中心で、籠あるいは神輿型の黄金色に飾られた人力車で運んだりしました。

第3はさまざまな葬具の出現です。葬列を彩るために野道具と言われた葬具が立派になっていきます。金蓮、銀蓮、生花や造花を挿して車仕立てにした花車、鳩を放つ放鳥もこの頃出現したものです。鳩を運ぶ放鳥興、位牌を運ぶ位牌興、香炉を運ぶ香炉興なども出てきます。近代的な葬具の歴史の始まりと言ってよいでしょう。こうした葬具の提供で、専業化が進み、葬儀社の前身である貸葬具を業とする葬具屋が出現するところとなります。

第4は、粗供養の大型化です。葬儀となる地域の人に食事を振る舞うという習慣は、江戸時代から行われていました。また、葬列の出発の際に花籠のバラ菓子や小銭を入れ近隣の人に振る舞い供養としたなども既にみられたことで、粗供養の起源と思われます。葬儀が大型化すると、会葬者全てに対して菓子包み、饅頭、弁当を配るという今日の粗供養(会葬返礼品)の原型ができてきます。喪家側も不足すると恥ずかしいと大量に準備するようになりました。(「喪家」は、古くは「ソウカ」と読みました。関西では「モケ」、関東では「葬家」とも書き「ソウケ」と読みます。)

第5は、人夫の出現です。大きな葬列を演出するには多くの葬具運搬人や多数の参列者が必要となります。20人くらいから中には千人を超える人夫が動員されたとの記録があります。こうした葬祭業者は葬列用の衣装を揃え、また貸衣装も行ったと言われます。

葬列、葬具が大きく立派になるのは、都市においては富裕層から次第に一般庶民に影響するところとなっていきます。葬列の肥大化は明治20年くらいから10年間をピークとしており、明治30年代になると逆に葬儀の奢侈(しゃし)化が盛んに非難を浴びるようになってきます。葬儀における貧富格差が明確になると共に、地方との違いもまた大きかったのがこの時代の葬儀でした。

葬儀を業とする者の出現は江戸時代に遡ります。江戸時代の後期には、座棺(桶)を制作する、桶屋と呼ばれた業者の存在が見られます。しかし本格的な出現は明治時代に入ってからで、参列の人夫の手配業、葬具の制作、貸出業という形で始まります。葬祭業者の起源は大きく4つに分類されます。

①棺、葬具製作から転じたもの(カンヤ、ガンヤ、オケヤなどと呼ばれました)

②造花製作から転じたもの(ハナヤなどと呼ばれました)

③葬列の手配から転じたもの(カゴヤ、ソウレンヤなどと呼ばれました)

④食品業から転じたもの(葬儀の食料品の調達から葬具の貸し出しも行うようになったもので、八百屋、乾物屋などから転じたものです)

第二次世界大戦前の葬祭業者は葬儀の運営までを担うことはほとんどなく、葬具の制作・貸し出しを中心とした「葬具提供業」でした。

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近世・近代の火葬の歴史

仏教葬と火葬には密接な関係があると言われています。明治29年のデータでは火葬率は26.8%となっていることから、江戸時代の全国の火葬率は2割程度ではなかったかと思われます。

しかし、江戸(東京)や京都などの大都市および浄土真宗の勢力の強い北陸地方では火葬率が高かったようで、火葬率が65%を超えている都道府県は、北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の8つです。京都市では、明治時代初期に市街化墓地への土葬が禁止されたこともありますが、1906(明治39)年の時点で既に80%の高率を示していますから、江戸時代にあっても火葬がかなり普及していたものと思われます。

 

しかし、明治政府は1873(明治6)年に火葬禁止の布告を出します。火葬は仏教的であるとの理由です。これにより東京の火葬寺が火葬の長所を訴えた『火葬便益論』を述べます。そこでは、土葬にすれば面積をとり墓だらけになる、火葬にすれば遺骨を簡単に郷里に送ることもできる、分骨も可能と、都市生活に便なることを強調します。仏教の思想をからめなかったのは神道の国教化を進める政府に配慮してのことでしょう。

 

そのため政府は2年後にはこれを撤回します。その許可条件として、市街化から離れること、臭煙が人の健康を損なうことのないよう注意して煙突を高くすること、火葬場と墓を分離することなどが記されています。京都市は市街化にある寺院墓地への土葬を禁止し、東京も明治24年には市街地での土葬は禁止しました。

 

当時の火葬は夜の8時から10時までの深夜に行い、拾骨は午前8時から午後3時に行うことと定めてあります。明治17年に「墓地及埋葬取締規則」が制定されています。昼間火葬、即日拾骨が可能となったのは昭和2年、東京の町屋火葬場が重油炉火葬を導入して以降のことです。

火葬が推進されたのは明治30年の伝染病予防制定以降です。法定伝染病患者の遺体は原則火葬と定められました。現在、火葬場および墓地は「墓地、埋葬等に関する法律」(墓埋法)によって管理されており、厚生労働省の管轄です。明治以来、墓地や火葬は公衆衛生の観点で行政に理解されていたことがわかります。

江戸時代には、仏教寺院に「火屋」と呼ばれる火葬施設がありましたが、伝染病予防法制定以降は火葬場の統廃合、改修、新設も進み、自治体もこの経営に参加するようになりました。

全国の火葬率は順調に上昇していきます。明治29年の26.8%から明治42年には34.8%となり、1940(昭和15)年には55.7%と過半数を超えるようになりました。しかし火葬場は毎回設営する必要があったため、火葬は高額な葬法として理解されていました。したがって、火葬場での荼毘は貴族・武士階級のものでした。庶民が火葬する場合には、野焼きを行っていたようです。

江戸時代になると寺院内に炉を設けた火葬施設ができてきましたが、燃料を薪などに頼るため火力が弱く時間がかかりました。また火葬の煙や臭いによって付近の住民に問題を生じていたようです。

明治時代になると公衆衛生を理由にその管理も厳しくなり、建物内に火葬炉を納めた近代的火葬場第1号として、明治11年に浄土真宗本願寺が建設した「両本願寺火葬場」(現在の京都市中央斎場)があります。

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明治維新と神道・仏教の関係

〇神仏分離令と排仏毀釈
1867年(慶応3)年「王政復古」の大号令が下り、1868(明治1)年には「神仏分離令」が出され、事実上、神道を国教化するようになりました。

神社は仏教的要素をなくすようにされ、神社か仏教寺院かはっきり判別するようになり、「廃仏毀釈」運動が相次ぎました。これにより破壊された寺院は数万にもおよぶとされています。

中世後期以降民衆宗教として定着し、江戸中期以降には国教として優遇されてきた仏教は、明維持維新という革命的な政治体制の変革により、大迫害をうけることになります。

〇神葬祭の許可と寺請制度の廃止
神仏分離令が出された年、神職の家族にも神葬祭が許可されましたが、これを受けて、続々と神葬祭を願い出る動きになり、一般市民にまで許可されるようになりました。その結果、お寺の檀家であることをやめる人が増え、翌1871(明治4)年には戸籍法が改正されたことにより、正式に寺請制度(檀家制度)の法的根拠が無くなりました。

〇神道葬儀と神葬祭墓地
1872(明治5)年には自葬禁止の布告が出され、従来は神職は葬祭儀礼にタッチせず行われていましたが「葬儀は一切神宮僧侶に依頼すべし」とされ、神職は自由に氏子に対して葬祭を営むことができるようになりました。

しかし、神葬祭の墓地がないということで、神葬祭墓地として東京市営墓地が開設されました。青山墓地、谷中墓地、染井墓地が有名です(後年には神葬祭に限定されなくなった)。ちなみに、翌1873(明治6)年にはキリシタン禁制の高札も撤去され、キリスト教も公認されるようになりました。

〇神葬祭のその後と仏教葬
明治政府は国家神道の立場から、1882(明治15)年には官幣社・国幣社の宮司が葬祭に関与することを禁止し、府県社以下の神職だけが神葬祭に関与できるとしました。第二次世界大戦終了後に、神葬祭が完全に自由化されます。しかし、神葬祭は必ずしも大きな広がりを見せず、法的根拠はなくなったにしても檀家制度は明治政府の家制度を強化する施策の中で強い基盤を持ち続け、仏教葬は民衆の支持を受け続け今日に至っております。

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神道と神葬祭

〇近世宗教としての神道

神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、「神道」という一つの体系をもった宗教として成立するのは鎌倉時代中期以降のことです。神道の体系や儀礼を作り上げるのに特に貢献したのは吉田兼倶(1434~1511)です。兼倶は密教や陰陽道を取り込み神道を体系化していきましたが、日本においては神道が儒教や仏教に対して宗主的な位置を占め、万法の根底であると理論づけました。

〇吉田神道による地方神社の組織化

惣村における寺院の建立や寺檀化の進行により、地方においては仏教の影響力が強まる反面、神社は地位の低下を招きました。他方、神仏習合(神道と仏教の融合)によってできた、神社内に造られた真言宗や天台宗系などの寺院である神宮寺や別当寺も室町時代後期になると寺院を離れ、修験道の手に移っていきました。吉田神道はこうした神社、神宮寺、別当寺などを唯一神道として支配下におくようになり、それはほぼ1700年頃には完成されたと言われます。

〇儒学者からの仏教批判と儒葬

藩などの行政に関係した儒学者からも仏教批判が出てくるようになります。特に民衆の寺院への寄進、布施は、藩の徴税と対立したため「寺院が民衆を経済的に圧迫している」などと、僧侶の道義批判の形をとって仏教批判を強めるところとなります。

17世紀には水戸藩や土佐藩などは儒葬が行われています。

〇仏教排撃と神葬祭

仏教からの独立を果たそうとする神社にとっての大問題は、檀家制度(寺請制度)でした。これによって、神職といえども檀那寺に属さなくてはならず、また仏教葬を強いられていたからです。そこでそれらの神社は、仏教を排撃し、仏教色を払拭し、宗教としての神道を確立すると共に、神葬祭を唱えるようになりました。しかし、神葬祭を実施することは檀家であることをやめることでしたので、檀那寺の許可が必要となります。これは、寺院との軋轢(あつれき)を生じさせるところとなりました。幕府は宗教問題としてよりも民衆支配体制の問題として檀家制度をとらえていましたので神葬祭を容易には許可せず、ようやく1785年、幕府は「吉田家から葬祭免許状を得られたならば神職当人および嫡子(ちゃくし)に限って寺院の宗門を離れて神葬祭をしてよいが、その他の家族は宗門を離れてはいけない」という判断を示し、これは明治維新まで続きます。また、この当時の神葬祭というのは儒葬的なものにとどまりました。神葬祭の形式がまとめられるのは1872(明治5)年に維新政府の教部省により制定された『葬祭略式』によってです。幕末になると平田篤胤(1776~1843)などによる復古神道、国学者による排仏論が強まり、社会的な影響を与えることになりました。

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寺請制度

〇檀家制度の法令化

室町後期から江戸時代の初期にかけて、民衆の間でも寺檀関係の確立が進み、葬祭・仏事は実際的に仏教が支配するようになっていきました。こうした状況を背景に、またキリシタン禁制を名目として、江戸幕府は寛文年間(1661~1673)にかけ、宗旨人別帳(宗門改帳)の作成を法令化します。1665年、幕府はこれを諸藩に作成することを命じ、1671年からは毎年の作成を命じるところとなりました。

〇宗旨人別帳

宗旨人別帳とは、家ごとに全員の名前、年齢、続柄、家畜、場合によっては持高も記し、キリシタン(後には禁制とした日蓮宗の不受不施派など加わる)でないことを檀那寺が証明したもので、村の構成員全員に課せられました。寺(公に許可された寺であることが条件となっていた)が証明するので、これを「寺請制度」と言います。

これによって本来自然発生的であった檀那寺と檀家の関係が法的に制度化されたことになります。誰もがどこかの寺の檀家にならないといけなくなり、しかもそれは家単位であることが求められました。

〇戸籍を寺院が管理

寺請制度により、当時では世界一と言われる人口調査が可能となると共に、民衆は特定寺院の檀家となることによって、戸籍を得た形になります。以降人々は、結婚、旅行、移転、奉公の際には村役人の発行する送り状、請け状、手形の他に寺の発行する送り状、請け状、手形を必要とするようになりました。また、死亡時には寺への届け出も必要とされるようになりました。

〇「檀家」になることの義務内容

「檀家になる」とは具体的にはどういう意味をもつのでしょうか。『宗門檀那請合之掟(徳川家康が定めたとされ、当時もてはやされたが、偽書と言われています)によれば、その内容は以下のようにまとめられます。

①4月8日の釈迦の降誕会(灌頂会)、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りすること

②説教や仏法を説く寺院の集会に参加すること

③寺院の建物の建立や修理に協力すること

④葬儀は寺院に必ずお願いすること

①、②は仏教寺院本来の宗教活動ですが、むしろ③の寄進と④の葬儀が寺檀関係を示すものとして認識されるようになりました。葬儀は寺院に頼むという現在の常識は、当時は義務としての性格をもっていたことがわかります。これは、仏教寺院の葬祭仏教化をいっそう進めるものとなりました。

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